緑の台湾(美麗島)

僕のからだには、日本人の血は全く流れていない。
僕のからだには、漢民族の血が流れている。

 そう、僕の両親は、日本に帰化した台湾人(本省人)である。
父は戦中、基隆生まれ(太平洋戦争はまだ)、
母は、戦後すぐ広島県吉田町で生まれ、台中に引き上げた。
父の姓は、郭。母の姓は、陳。母は台中の望族である。
 
 父は苦労人だ。それなのにとても謙虚なので恐れ入る。
中学から家を出て、台北の中学校に通い、幼稚園の園舎の
部屋を間借りして、蚊帳の中で睡り、扇風機を作る工場で
働きながら中学へ行った。ボーナスで夏に扇風機を基隆の
家に持っていくと、喜ばれたという。
 高校は工業高校に通う。電気や工作が好きで、将来は
工学部や理学部系統で色々とやりたかったらしい。頭が
よかったので希望者がほとんどいなかった大学受験を考え、
台湾全土の統一試験?を受ける。戯れに、まさかこんな
にいい点にはならないだろうと思って書いた、最後の方の
「牙学部(歯学部)」希望に、たまたま成績がよかったため
決められてしまった。沢山の希望の選択肢の中から勝手に
お国が決めるシステムだったらしい。
 自分の城をできるかぎり一生やると言っている父が、
今では信じられないが、そのとき、最初の一年は迷いが
あり苦しかったという。新しい大学でもあり、歯学科から
医学科に移ってしまった人など、沢山いて、最後は10
数人ぐらいしかいなかったらしい。高雄医学院(大学)の
3期生?ぐらいだった父は無事卒業し、空軍に1年間行く。
軍医としていけたらしく、ありがたいことである。
まだ当時はプロペラ機で音が凄かったらしい。
 また、軍隊に適応できずに、自殺してしまった人間も
目の当たりにしたという・・・。

 そして、京大の口腔外科に来た。最初は、寝るところも
なかったので、教授のご厚意により、会館で寝泊りしたらしい。
7年研鑽を積み、関連病院の医長を務めた後、開業。
----------------------------------------------------------

 母のほうは、まるで、近代史そのものである。
母方の祖父は台中出身であるが、大正年間に生まれる。
台中の望族とはいえど、末っ子で、幼くして父母をなくしている。
母方の祖父(阿公)は、日本の創始改名で、三井省吾と名乗っている。
大学で、牧師になるか、歯科になるか、迷ったらしいが、
(なぜ祖父は歯科をやりたかったんだろう・・・父方母方とも
うちは医者などの家系ではない。やはり生活の安定を考えたのと、
日本統治下での台湾人の立場を考え、仕事として無難なほうを
えらんだのか)戦前の東京歯科大学に入学した。
 当時、東京帝大の矢内原忠雄先生の「帝国主義下の台湾」が
出ていた頃であり、クリスチャンでもあった、矢内原先生に共鳴し、
ボディーガード(はいいすぎだろうが、集会に参加し、
背の高く大柄だった祖父は、確かに不穏な人をつまみ出す役目も担って
いたと聞いた。よく考えれば、軍国主義が高まる時代によくやって
いたものだ)として集会に参加していたらしい。
 3番ぐらいで卒業のところを台湾人だからということで5番か7番
ぐらいで卒業し、歯科医として京都府立医科大学病院に赴任する。
そして祖母と結婚し、太平洋戦争中には、広島県吉田町の
吉田病院に赴任する。広島市からは約20キロほど山に入った
毛利元就の発祥の地である。後に、我々と、まだ健在だった
祖父とで訪ねたことがあるが、台湾名がなかったので、
あれとおもったが、「三井省吾」の名が確かに
あって、懐かしんだものだ。当時はやはり皆日本名だったのだ。

 原爆が落ちたときも、もちろん、吉田町に、いた。
 朝、祖母が外で洗濯をしていると、市内のほうがピカッと
光り、ドーンと音がしたらしい。近所の人たちと、
工事でもしているのではないかと言っていたらしい。
そのうち大きなきのこ雲が見え、午後になると、今まで見たことのない
状態の人たちが、沢山吉田病院に運び込まれてきて、
これはただ事ではない、ということになった。
 祖父は、翌日には、広島市内に単身入り、救助活動を
している、歯科だ、医科だ、など言っていられなかったと
思われる。祖父は、正義感あふれる人だったが、この時目にした光景
だけは、晩年我々の前に語ることはなかった。それほどひどかった
のだろう。祖母が、祖父から伝え聞いた話を小冊子にまとめていて、
それを読んで知ることが出来るぐらいだ・・・。祖父には、聞いても、
答えなかった。

 そしてその原爆が落ちた約半年後、母が、広島県吉田町で
次女として生まれた。
 生まれて間もなく、台中に皆で引き上げた。

 祖父は、素晴らしい人だったらしく、戦後、台中で自ら開業しながら、
中山医学院で、歯科を教授したり、奉仕活動なども相当やっていたり
したらしい。
 晩年は、娘息子達が、皆アメリカに移住してしまい(うちの母を
除いて)、最後にそちらに渡ったが、今でも日本に渡ったほうが
よかったのではないかと僕は思っている。最晩年、発せられる語は
往々にして日本語で、僕達を呼んでいたらしい、僕達がそばにいれば(涙)
 
 数年前も、祖父の名前を聞きに京都の家に電話がかかってきて、
祖父が府立医大の時にお世話になった看護婦です、と、
長い手紙?も送ってきてくださって、とても祖父は立派で
皆から愛される人だったようだ。残念ながらもう祖父は
他界してしまっていたのだが・・・。
 正義感あふれる厳しい人だった。そして、喋り好きだけど
しっかりと支える祖母、まさに鏡的存在だった。

 うちの父も歯科、母方の祖父も歯科、しかも恋愛結婚
なのでたまたまの廻り合わせだが、うちの父は本当に、
母方の祖父を尊敬していたと思うし、母方の祖父も、父を
認めていたのだと思う。
 私は、もちろん、母方の祖父は永遠に尊敬しているし、
父を越えられない以上に、母方の祖父は越えられない存在だと
思っている。少しでも、近づければ。特に今の僕は
収入は像と蟻みたいなもので叶わないが、奉仕の精神や、
皆によくする精神、そして厳しく律する精神、そういったものを、
亡き母方の祖父から受け継いで頑張っているつもりだ・・・。

 そして母は、台中で育ち、台中一中、
長女の方ともども、大学で大阪音大に来た。
祖父の方針である。

 卒業後、しばらくして、父と恋愛結婚した。
 父は開業し、そして僕が生まれる約5ヶ月前、
台湾の中華民国籍を捨て、日本国籍を取得した。
「帰化」したのである。僕のことをも考えたらしい。
苗字には、父方の祖父が戦前の創始改名の時に考えた
苗字を再び使った。

 従って、僕は、漢民族の血が流れているが、
法的には完全に生まれながらの日本人なのである。
京都市生まれ。私の初めて話した言葉は、「ペンアン」
「平安」、台湾語である。台湾語は、50パーセント
ぐらい聞いてわかる。だが、話すことができない。
日本に親戚なる者は、いない。
 
------------------------------------------------
 父方の祖母は、96か98歳で、七夕の日に
生まれ、七夕の日に、この世を去った。
 台湾に、七夕の習慣があるかどうか分からないが、
祖母が生まれたときは、日本の領土だったので、
七夕が祝われていたのだろうか・・・。

 19日(水)、京都に行き、両親と合流。
 20日(木)、台湾へ行く。
 22日(土)、葬儀。
 23日(日)、日本に帰還。

2006年07月19日 03時54分50秒


© Rakuten Group, Inc.